決断することの尊さ
- Taro Koyama
- 4月2日
- 読了時間: 3分
大なり小なり、人は「決断すること」で成長するのだと思う。
それは、新しく何かを取り入れる決断かもしれないし、思いきって手放すという決断かもしれない。
あるいは、大きな投資に踏み切る決断、環境を変える決断、人との関係性を見つめ直す決断。

決断には、それぞれの“レイヤー”があって、その重みや深さは人によって違う。でも、決断という行為自体が、魂に一つ階段を刻んでくれるような気がしている。
僕自身、久しぶりに2日ほど悩んで、ある決断をした。
そのことを彼女に話したとき、「なんで悩んでるのかわからない」と笑われた。
確かに、客観的に見たらそうかもしれない。だけど、自分にとっては大きな節目だった。
人生を変えるような選択をするとき、僕の中ではいつも“魂が震えるような感覚”がある。
そして同時に、それを止めようとする“なにか”も動き出す。
それはホルモンの働きだったり、遺伝子的なプログラムだったり――とにかく、変化に対する強烈なブレーキがかかる。
人間には“恒常性”という性質がある。
今、生きていけているなら、そのままでいいじゃないか。変化は危険だ――そういう無意識の声が、内側から聞こえてくる。
これは原始時代から続く、生き延びるためのシステムらしい。
草むらから顔を出すだけで命を落とすような時代、変化はリスクだった。
だからこそ、「変わらないこと」は、生きる上での正解だった。でも、現代においては、その安全装置が逆に自分の可能性を狭めていることも多い。
むしろ、“ちょっとネジの外れた人”の方が成功してしまう時代なのかもしれない。
慎重さよりも、直感と行動力。安心よりも、飛び込む勇気。
人は決断しないと、現状を維持し続ける。
同じことを繰り返すことで、いつしかそこに“利権”のようなものが生まれ、自分のテリトリーに他人が入ってくるのを拒むようになる。
そして気づけば、国のせい、社会のせい、人のせい――責任の所在を外に向けてしまうようになる。
それは、魂が濁っていくプロセスでもあると思う。
変わらないことを選び続けると、知らず知らずのうちに、心の柔らかい部分が硬くなっていく。
変化を怖れるうちに、変化できない体になってしまう。
だからこそ、違うことを始めるって、本当に難しい。
それは意志の問題というよりも、構造的に難しいのだ。
だからこそ、決断した瞬間に人は成長するんじゃないか、と思う。
身体のどこかで、何かが一つ“乗り越えられた”感覚。過去の自分から一歩、外に出るような感覚。
僕も決断から逃げてきたことがたくさんある。
ただ流れに身を任せていた時期もあった。
でも、「どうしてもこのままではいけない」と思ったある日、会社員を辞めて語学留学へ行く決断をした。
それが、自分にとっての最初の大きな“レイヤーの移動”だった。
あのときから、自分の世界が変わり始めた。
周囲の人に心から感謝できるようになったし、写真や映像、デザイン――自分の好きなことでたくさんの仕事をいただけるようになった。
2025年に入ってからは、不思議と大きな流れが来ている気がしていて、内側が静かにワクワクしている。
1年を通して新しい挑戦ができるような仕事の依頼も舞い込んできた。
だからこそ、いま改めて思う。
とにかく、挑戦し続けるしかないんだ。

もっと自由で、もっと心地よい未来を自分でつくっていくために。
ちなみに最近気がついたんだけど、僕はどうやら音や言葉、物事そのものが“イメージの中の物体”として見えるタイプらしい。作品にはレイヤーが見えるし、人の名前も、未来の出来事も、何か立体的なかたちで感じる。
もしかしたらその“見え方”こそが、自分の選んできた生き方や決断にも関係しているのかもしれない。感覚的に物事を捉えて、飛び込むかどうかを決める――そんな生き方が、自分には合っている気がしている。
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